ソレイユニュース 2021年10月号
1800年代中頃、現在に至るまで爆発的な人気を誇るピアノ教本が発売されました。その名は『バイエル教則本』(以下、『バイエル』)。
夫の北海道教育大学釧路校の同僚で准教授の小野亮祐氏が、音楽の友社から『バイエルの刊行台帳(世界的ベストセラーピアノ教則本が語る音楽史のリアル)』を出版され、『バイエル』についての謎を見事に解き明かしているので紹介しましょう❗
皆さん、初心者向けのピアノ練習曲として1850年に発売された『バイエル』が、当時どれ程のベストセラーだったかご存知でしょうか?
ドイツの大都市フランクフルトに近い、南ドイツに位置するマインツという小都市に、1770年創設のショット社という楽譜出版社があります。この出版社は、ワーグナーのオペラ『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を初めて出版したことでも知られる老舗の出版社です。『バイエル』は、そのショット社から出版されました。
現在も続くショット社は、過去の出版に関する資料が保存されています。楽譜を研究する研究者や音楽家にとってお宝といえる自筆譜や刊行記録などです。
この『バイエル』に関する新刊本は、この刊行台帳に着目した点が新しいといえましょう。
当時、普通の初刷楽譜の発行部数は、25部から50部で、その後数年間隔で第2刷、第3刷が発行されました。
一方『バイエル』は、1850年に発売されて以来、ほとんど毎年増刷されただけでなく、初刷翌年から英語版、10年後にロシア語・フランス語も発行。20年後にはスペイン語にも訳され、50年間の総売上数が、何と60,000部ということですから、他の楽譜とは桁違いの大ベストセラー教則本だったという訳です。
『バイエル』が刊行されるまで、大バッハの息子エマニュエル・バッハやレーライン、ミューラー等による教則本が主流でした。
何故『バイエル』が既存の教則本に比べ爆発的に人気が出たのか、理由のひとつとして、貴族だけでなくブルジョア階級の子女がピアノを教養として習う習慣ができはじめたという社会的現象が挙げられます。
それまでの教則本は、師から弟子たちへの、職業的技の伝達を目的をするものであったため、エマニュエル・バッハの教則本には、トリル奏法が列挙されていたりするなど、かなり難解なのに対し、ポジション移動がない『バイエル』は、素人の初心者の導入に丁度良かったようです。
また、日本で発売されている『バイエル』にはないけれど、項目ごとに伝統的な指の練習方法が挿入されていたり、当時流行ったオペラのアリアなどをアレンジした初心者向けの曲集が付録についていたり、工夫が盛り沢山だったことも人気の要因でした。
この本を執筆した小野氏は、音楽学者として、ピアノ初期教育の代表的な教則本『バイエル』と作曲者に興味を持ち、バイエルが学んだライプツィヒやドイツ各地の図書館、出版社へ楽譜探しの旅をし、誰もが知っているけれども誰も知らなかったバイエルの歴史や生涯を、数冊の本でつまびらかにしました。
小野氏は、この本の他にも、『バイエルの謎』『バイエル原典探訪』などの本を出版されていて、ピアノ教育史に貴重な一石を投じています。
論文とはかくや、と思わせる着眼点と粘り強い調査力、高い文章力と相まって、ぐいぐい惹き付けられます。
お薦め図書です。
皆様、是非お読みください。